盂蘭盆会

私がこの世に“おぎゃあ”と生まれた時から私を知って下さった叔母さん盂蘭盆会の頃、旅立ちました

 

名古屋市内に生まれ育ち、垢抜けした叔母さんで我が家の訪問時はお洒落に着飾った姿がまるで女優さんの様でした。素朴な叔父さん(母の弟)がどうしてこの人と結婚したのかしらと子供ながらに思いました。昔は兄妹、姉妹が多く父の兄弟は8人、母の兄弟は6人と大勢のおばさん、おじさんが何か亊ある毎に集まり、田舎の我が家は朝から夜まで大賑の一日でした。

 

今では親戚一同が集まることは無くなりましたが昔は本当に良く我が家に来てくれました。

そんな姿を見ているだけに又ひとり、叔母さんが亡くなってしまったと淋しいばかりです。

 

名古屋を離れて45年以上の年月が過ぎて、何年か前に未だ元気だったころに合って声掛けしたのが最後でした。お見送りは出来ませんでしたが大好きだった花を添えて送る言葉と致しました。

 

・・・・・・・・・・・従兄弟たちの母への思いが栞として届きました・・・・・・・・・・・

包容力があり、家族を大切にした母でした。家業の金属研磨の仕事と家事とを両立させ、埃と油に

まみれながら作業に励み、懸命働く背中を想い出します。

一方で、お洒落だったことも母を語るうえでは外せません。松坂屋で洋服を選ぶことが常で、自分

らしい装いを心掛けていました。又、自宅の玄関や屋上でランの花を育てたり、毎日使う食器類に

萩焼などを取り入れたりと生活を楽しくなる工夫をしていました。

仕事を引退してからは多彩な趣味を楽しんでいた母、六十代で始めて歌謡舞踊では“名取”となり、

七十代で“書道の師範”となるなど、努力を重ねる姿勢に母らしさを感じたものです。また、海外旅行の魅力に目覚めてからは、様々な国に足を運び、中でも夫婦でハワイ四島を巡り大自然を満喫した思い出は深く心に刻まれているようです。心豊かに生きた母の笑顔が心に浮かびます。

 

 

一生懸命に充実した人生を生きた叔母さんの笑顔を忘れません。

良い人生だったと息子たちに言ってもらえる母は全部が全部ではありませんし、素晴らしいと思いました。そんな叔母さんをお手本に今からでも遅くはないです。

私も死ぬまで運命学の勉強を研鑽に研鑽を重ねて生きようと思いました。

在りし日をしのびご冥福を祈ります。              

                                合掌     さきより